itisuke雑記帳▼

「城北女子」

 僕の父親昭和10年生まれで、高1まで城北学園に通い、今生きていれば80歳なのですが、昭和23年に城北が新制中学・高校となって共学校となった時に、この世代は中学校から若干の女子生徒が入学しておりまして、城北学園の「城北史」という校史にも、3名の女子卒業生の方が寄稿しておられます。

 ふと読んでみると、他の男子生徒とは違った視点で物を書いておられ、分かりやすく参考にすべき点が多い様に感じます。ちょいと紹介させて頂くことにしたいと思います。

 城北と私 

 私はまだ戦後の混乱からぬけきらない昭和23年4月に入学した。今までに見たこともないような、大勢の男の子達にびっくりしたのが、第一印象であった。
 当時校長でいらした近藤薫明先生の授業が、中学時代には定期的にあったように記憶している。その時にお教え頂いた、質実剛健の精神に大層感動し、以来、それが私の生活上の基本となったような感がある。先生は「正しい精神を保つためには正しい姿勢が基本である。両足をしっかりと地につけ、その上に背すじをピンと伸ばした胴体と頭がきちんと正しく載っていなくてはいけない」ということを、その授業の最初にいつもお話しされていたと思う。
 また大勢の男の子達と一緒に6年間を過ごしたことは、両性の適性、不適性を自然に感じとることが出来て、社会に出てから大いに役立ったと思う。
 城北の6年間に学んだ学問的なことは、次々と置き忘れてしまった私であるが、質実剛健の精神と、正しい姿勢は、これからも私の生活上の基本として、共に生きていくものと確信している。そして城北の6年間を振り返る時、私の青春がいつもキラキラと輝いてそこにあるような気持ちがする。
 最後に、今城北に学んでいる人達、そしてこれから学ぶであろう人達には是非次のことを申し上げたい。質実剛健の精神を、この青春時代に是非培って頂きたい。そしてそれを其として、悔いのない人生を送って頂きたいと思う。 青柳親知子さん

 城北と私

 平成3年の6月のある日、昨日まで続いていた夏日がとぎれ、さわやかな風の中を30数年前通った学校にむかい、今更ながら年月の経つ早さに驚いた矢先、母校も、それ以上に変貌していたのには言葉もなかった。
 チリ一つない校内はとても男子校とは思えないようで、一年中泳げる温水プール、わざわざ北海道より取りよせてはった床材の屋内体育館、大きな書庫のある広々としてゆったりした図書館、それに都内でこれだけ広い運動場のある学校はまれではないだろうか。一人残って勉強している教室にはクーラーも入って、まるでホテルの中に居るような気がしてしまった。
 さて、私達6期生は今では考えられないその頃の社会情勢(新制6,3,3)の導入の時期にあたり、公立の学校の教室不足として1年上の学年は預り生徒で、男女が同数在籍していたため、我が父母も抵抗なく女子である私を入学させたものと思う。しかし入学しても女子を迎えるための用意もなく、トイレなど職員、外来用のを使っていた。男子の中に一割位の女子生徒では施設の変えようもなかったのだろうか。それでも中学の時はまだ良かったが、高校になってからは、もっと少なくなりそのまま高校に入学したのは1年上が2・3人、我々は、20数名位となってしまった。
 戦後教育の民主化が叫ばれ、男女同権になったとはいえ、男女同等に教育を受ける事は、女子にとって、とまどいや、大変な面もあった。
 月曜テストは成績順に廊下に貼り出され、あの広い校庭で寒いみぞれ降る冬の日に男子と一緒になってのラグビーの授業、月謝納入日に教務の先生と事務の人が授業中に廻って来て集めるが、その頃はまだまだ大変な時だったので納められない人がいつも決まっていて、みんなの前で先生に理由を話す姿にはとてもつらく思った。しかしこんな事も精神的に強くならざるを得ない面で、体力ともども男子についていける自信になり、やがて今日に至るまで何とか強く生きてこられる結果となったのが、我が城北魂とでもいうのかも知れません。
 今や、進学校で名高い城北。現在在学中の生徒は、かつてここに女子生徒が居たとは想像もつかない事だと思いますが、我々女子にとっては、やはり母校であり永遠に残る歴史であり、これをさまたげる事のない充実した生活をこれからも送っていきたいと思います。
 これからの発展と成功をお祈り致します。  菊地淳子さん

 私と城北

 十年ひと昔と云いますが、あれから、もう何年経ったのでしょうか。思えば校庭のそばには川が流れ、土があり、草があり、きれいな空があり、4月には桜の花が見事で、風の強い日は土ぼこりを舞い上げ机の上までザラザラになり、寒い時は霜柱が立って自然がいっぱいでした。
 私は城北学園(中等部)に昭和23年4月1日に入学しました。まだ子供で小さな女の子でした。
 1年B組担任は宇川先生で、若々しく身なりもきちんと調えられ、内心ホッと致しました。
 まだ戦争後間もない頃でしたので、国語の島田先生は軍服を着て居られ廊下を歩く時も独特でした。
 宇川先生は現代的で社会科の授業内容もなんとなく民主主義的でした様に記憶しています。
 女生徒が少数でしたので、女子らしい時間割はなくすべて男子生徒と同じでした。しばらくしまして家庭科の長谷川先生が入られまして、初めて女子だけのお教室で浴衣を縫う事になり、布を裁ち針を持って出来上りを楽しみしていましたのに、完成する事なく宇川先生と結婚されてしまい高3卒業まで女子だけの授業は全くありませんでした。宇川先生がすばらしい方とご結婚されたので私達はうれしかったのですが、先生は女子生徒の後の事など、あの時は頭に入らなかったのでしょう。当時の私達にはよくわかりませんでしたが先生は最高にお幸せだったのですね。そんな頃音楽の細野先生に母が相談してくれまして週1回先生のお宅(野方)まで歌の個人レッスンに通う事になりました。
 学校では音楽部に席を置き、よく大きな声で歌っていました。
 校訓としては「着実、勤勉、自主」努力の学園でしたので、村野先生の様に厳しい方はテストの発表の時など「音楽ばかりしてチィ、チィ、パッパばかり歌っているんではない」と、おこられもしました。しかし大きな声をはり上げますと気分もスッキリ、音楽のお教室は一番楽しい場所でした。
 体育の丸山先生の時間は、あの広いグランドで男子と一緒にラグビーをし、テストもラグビーの問題が出てラグビーと云えば丸山先生でした。当時の城北は強く先生はいつも毅然としてまして体も大きく、あの日焼けした笑顔はステキでした。
 体育以外でも多くを学び、時には部の方達と一緒に秩父の宮ラグビー場に連れて行っていただき本当に貴重な経験でした。高校時代の最良の思い出に残って居ります。そんな男っぽい城北魂が身につき子育てや家庭の大変さも余り気にならず今日まで生きて来られました。
 男っぽい城北学園を卒業出来ましたのを誇りに思って居ります。 本田孝子さん

 私と城北(おまけ)

 思えば昭和23年3月に城北中学校に入学し、生徒時代を含めて延べ36年御世話になっているが、現在に身を置けば隔世の感をぬぐえない程の興奮をおぼえる。
 入学時には、なんと女子生徒が30?40名程おり、中二の時に城北のマドンナと言われた女子生徒と机を並べ勉強したものでした。このクラスには先年亡くなった小高教頭の妹さん、又大学ラグビーのゲームで解説する日比野(早大)君もおり、非常に和やかなクラスの雰囲気でありました。中三の時には、都内でいち早くプールを作る事となり、主に体育の時間に、下水道を田柄川迄生徒自身の手で掘り下げ、プールが出来るうれしさで作業が進んだように思う。このご褒美に、マーガリンとジャムのついたコッペパン2個を貰って食べ、これがまた美味しかったことが思い出せる。
 高校生になってからは女子生徒の人数が多少減ったが、なお30名位は在学していた。当然、男女一緒なので何組かの恋が芽生え、卒業後結婚し、幸せな家庭を作り上げた方々もあり、振られたもの、又まわりから冷やかされ泣いていた女子生徒も多々おりました。高校生での思い出は、体育祭のおりフォークダンスをしたことで、喜び勇んで練習に励んだもので、手を触れるのが照れ臭く、指導の先生に殴られた生徒もいたが、とにかく和やかでよき雰囲気であった。現在でも女子生徒がいれば・・・と思うのだが。先生方の思い出としては余り残っておりませんが、この頃は仲間内でよく先生方を仇名で呼んでいた。
 この時期には勉強よりスポーツ盛り、野球漬けで野球ばかりやって遊んでた。これらの先生の授業などでは真面目に聞いていましたが、なにせ進学など全く考えずスポーツばかりやっており、予習、復習など一切やらずちんぷんかんぷん。そして先生方も呑気なもので、たとえば数学などでは、ご自分で回答していくにしたがい混乱されて、しばし茫然「続きはこの次な」と言われて授業終わり、この次は無かったように思うが、こちらも忘れ誰も文句を言わずにのんびりした良き時代であったし、又、物事にこだわらず純粋で率直?な生徒ばかりだったと思っております。現在はその良き時代と違い、何かとぴりぴりとした雰囲気ですが、どんな時代に変わろうとも純粋で素直な気持ちを持ち続ければ、おのずと良き道が開けるものではないかと思う今日この頃です。

  新制6回 森田英直(体育・元副校長) 若干抜粋しました

関連記事
         城北学園、近いうち共学か?
         城北高校の歴史