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「城北学園80周年」

 今年は城北学園の前身の高等補習学校(予備校)が開校して80周年という年で、今日は創立記念日なので学校のHPを見てみたのですが、特にリニューアルもなく、前日の式典も例年通り、昭和16年の旧制中学開校から74周年という事でとり行われた模様です。相変わらず生徒よりも先生の方が目立っている感じです。

 城北学園 第74回創立記念式典 学校ブログ

 今春、20年ぶりに東大合格者数が1ケタに下がりましたが、特に来年の中高入試対策が取られている様でもなく、今年の城北祭も第70回だったのに、例年通り75回という回数で誤記されたまま実施されました。続く今回の80周年、前日の創立記念式典ではこの件に言及した様子もなく、たぶん記念事業(武道館や講堂の補修、校史編纂、校歌を変える、木を植えるとか)らしい事はやらないんじゃないかと思われます。

 いくつか城北高校の特徴を挙げますと、非常にオーソドックスな校風で、男子生徒は1学年400人、先生方は新卒中心の採用です。校長は3代続いて理系の人で、生徒会長まで理系の生徒が度々出ています。都立戸山、市川学園城北埼玉高校などとの交流はありません。また入学しやすく進学成績が良い学校で、運動部が活発だと言われます。創設者は管理教育の人で、「着実・勤勉・服従」という教育方針だったものが、「着実・勤勉・自主」と直されて校訓になりました。生徒の自主性には?マークがつきますが、先生の方は昭和50年代半ばには私服通勤だったし、平成に入ると外人やら女性採用も進み、比較的自由度は尊重されている方ではないかと思います。

 文化祭の始まりは昭和21年で、その35年後の昭和56年(高校40周年)の城北祭というのは、僕の見た最初の高校文化祭だったのですが、あの頃は元生徒会長が高3で文実委員長をやったり、廊下を歩いているとBGMが流れ、教室不足の為に半教室の団体が多く存在し、鉄研だったら入口に券売機やら中に人がいる自動改札機なんてのがあり、落研もあったんじゃないかな。それに後夜祭でやった人間イスがギネスブックを更新したりして、来場者が1万人を数えたりしていました。

 ところがその翌年、次の年と、文化祭は年々低調になって行きます。後夜祭(ダンス)もアトラクションもなくなり、他校祭のポスターが掲示される事もなく、漫研はパンフレットに挿絵(風刺など)を出さなくなりました。生徒新聞とか、献血車を呼んでいたインターアクトもなくなり、生徒会長は1年生がやる様になり、歴史部も長く冊子を製作する事ができませんでした。自由下校を認めて校舎を改築した頃の高校棟なんか、本当に何もやってなかったです。これは一貫生と高入生を別クラスにしたのが原因だったのですが、それを高2から混合という形で戻すのに15年くらいかかり、それから有志参加だった文化祭実行委員会にクラス委員を加えたり、露店を8団体、20団体へと増やしたりして、ようやく賑わいを取り戻す様になった感じでした。

 他校を見ると、文化祭での対応を意識して校舎のレイアウトを考えていたり、高3に上がる時にクラス替えをしない様にしたり、共学で高3でも文理混合クラスの形をとって、高3の全クラスが演劇や映画を発表している学校が上位の進学校の中に存在し、その代表格が城北の前身の都立戸山高校である訳です。城北の先生方も模擬店や小ステージ演奏の類いには必死に抵抗をして、そういう研究発表重視という方向に持って行こうとしてきた筈です。男子校の文化部の部員というのは3割位しかいないし、高校でのクラス参加はないに等しい状態です。たまに文化祭実行委員会が活発になる年は体育部の部員が中心である事が多く、進学校なのに成績に見合った文化活動が行われていないと言われます。

 学校ブログに『城北学園では、まずは「人として」を大切にしています』とありました。今、主要な校舎は築25年で中学棟の南館は築35年ですが、中学棟が中2までしか使っておらず、これを将来改築するよりは中学の定員を2クラス分ずつ減らし、全部高校棟へ入れてしまえばいいと思うんです。それに女子を3分の1加えれば男子生徒は半分くらいに絞られます。

 それで会議室とか校務センター、進学指導部(と言ったかな?)、それに教科別の職員室などは中学棟へ移し、開いた部屋を予備室にしたり、予備室を教室にしたりする。管理棟はPTAや同窓会や生徒会などで活用する。それから文化部の部室なんかも中学棟か、食堂にロッカーだけ置けばいいんじゃないかと思う方なんですが、小竹向原駅利用者の為に高校棟西側に昇降口を設けるという事も課題ではないかと思われます。