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城北高校の歴史

 以前、ウィキペディアに書いたものですが、久しぶりに見たら、きれいに削除されていました。もったいないのでこちらに移し、若干加筆修正しておきます。

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 戦前の東京府立第4中学校(現都立戸山高)で40年間校長を務めた深井鑑一郎は、4中の50周年にあたる1937(昭12)年の翌年、OBの西浦泰治教頭(1943年没)を後任として、同校を退職した。

 深井氏は1935(昭10)年、外部募集を行っていた4中補習科を分離して、城北高等補習学校(4中教員が多く講師を務めていた)を開校していたが、4中生の父兄である山種証券の山崎種二社長を誘って、私立中学を開校しようとする。これは実現に至らず、1940(昭15)年に、山崎氏が経営を引き受けた富士見高等女学校(現・山崎学園富士見高等学校)の校長に就任となった(日経・私の履歴書「山崎種二」編より)。

 一方、1937(昭12)年に、4中の古賀米吉元教諭が市川学園を開校した。古賀氏の友人でもある近藤薫明4中教諭(第2代校長・1943?82)は、4中で会計主任(OB)だった重信常直(のち城北高事務長)を介して、深井氏(77歳)に私立中の開校を打診し、自らが開校実務を引き受けることで、城北中を開校させた。

 最初の候補地は、深井氏が個人で借りていた小竹向原の田畑だったが、この場所が環状7号線の用地にかかったことから、現・都立城北中央公園の一角が候補にあがった。いったん東武練馬の東武鉄道用地を借地し、市ヶ谷左内町の補習学校宿舎を仮校地として開校したが、昭和17年に現校地を取得し、翌年に移転。深井校長はこれを見ずして、1943年3月24日に亡くなった。

 この間に、のち2代目理事長となる井上源之丞氏(凸版印刷社長)より、4つの候補地が紹介される。これは市川学園と近すぎる京成沿線であったり、隣地が断崖絶壁(志村坂上)だったり、「城北」と言いにくい目蒲線沿線だったりして、残る東池袋の根津山(現南池袋公園付近)も、「地価が高い」(近藤教頭)として実現しなかった。戦後、この東池袋の地の多くは道路となるが、現・豊島岡女子学園が所有者の根津育英会と最初の売買契約を結んだのも、1941(昭16)年4月(移転は1948年)であった。

 戦後は、5年制の中学から中・高3年制となって、各200名ずつの定員でスタートしたが、公立中の義務化、無償化に伴って、私立中学の休校、廃校、女子校への転向などが相次いだ時代であり、城北中の定員も以後、約30年間に渡って百名の時代が続いた。1947(昭22)年度に板橋区の中学生委託校となったことから、城北中でも女性教員を採用し、翌年より男女募集を行うこととなったが、高校は男子募集のままだったので女子の応募は少なく、1950(昭25)年度より男子校に戻された。

 戦時中に接収されていた市ヶ谷の土地は城北学園の所有となり、1951(昭26)年に城北予備校として再スタートした。1956(昭31)年には約4000名の生徒を集め、中高の経営を支えたが、両校を兼任した近藤校長は以後30年間に渡って、午前中は中高、午後は予備校へと通うことになった。

 城北の校歌は1946(昭21)年、近藤校長の母校・國學院大學評議員のつながりで、武田祐吉・同大教授に作詞を依頼した。また1950(昭25)年に豊島岡女子高の校長となった二木友吉氏(同大OB)が、同年より入学手続きを公立高の合格発表まで待つ制度を始めたが、城北でも1956(昭31)年よりこれにならった。

 この頃は私学助成がなかったため、この施策が好評を得て、高校の受験者は1963(昭38)年に8600名に達し、1970年には入学生が千名を越えた。一方で大学の就学率も低い時代であったので、1967(昭42)年に隣地(現桜川中)が売りに出された際に、高等専門学校の設置が計画されるが、当時の山田三郎太理事長の急死で取りやめになった。

 その後、私立進学校の少なかった埼玉からの受験者が増えたことから、1971(昭46)年(30周年)頃には武蔵嵐山深谷周辺に新設校を建てる構想も生まれ、40周年を控えた1980(昭55)年に、85歳となった近藤校長はほぼ単独で城北埼玉高校(川越市)を開校し、その7年後(1987年)に城北予備校が50年を経て廃校となった。

 1980(昭55)年頃より城北中の2回目募集(2月4日・約30名)が始まっている。いわゆる2回入試の走りであるが、当初は2日間かけて入試を行う学校もあったため、市販の学校案内の記載では2月1日実施のままだった。その後、1986(昭61)年より中学入試日が2月1日から2日に変更されることとなり、2001年より1日が復活し、現在の3回入試となる。

 元戸山高校長の原晋校長(3代・1982?85年)就任の年より10年近くかけて、在学年数の長い中学枠の増加と、高校枠の縮小が行われた。ほぼ全生徒数は変えずに、中高1対5(100対550名)だった定員が2対1(270対135名)に変更され、中高合わせて約250名の募集が削減された。

 当時の原校長(戸山では高3まで文理混合クラス)は、城北の早大合格者が90名ありながら、東大が3名程度だったことから、1984(昭59)年に高校入試を3→5教科に変更するが、大幅な定員割れが起こったことと、氏の急死によって、2年で中止となった。その3年後の1987(昭62)年より高校枠を絞った効果が表れて、早大合格者が100名を越える様になった。

 宇川徹也校長(4代・1985?89年)は、それまでいなかった慶大出身の教員を採用。夫人が共学時代の元教員だったこともあって、改築された現・高校棟の各階に女子トイレ用のスペースが設けられた。矢沢友一校長(5代・1989?97)の時代は、女性講師などが7名(1997年)に。加藤健治校長(6代・1997?2005)は、さらに高校枠を90名(中高1対3)に減らし、中3のクラスを高校棟に移した。
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 1989(平成元)年の校舎改築後、特に理科系を中心に東大合格者数が伸び始めた。93(平成5)年は東大16(4)名、早稲田126(17)名、慶応83(18)名(カッコ内は中入生)で、1期生以来の東大2ケタとなり、97年(17名)には初めて戸山高の東大合格者数(16名)を抜いた。また西武線の練馬・小竹向原駅間開業の6年後(2000年)には、前年の15名から26(2)名(カッコ内は高入生)に増え、中学入学組の進学成績が上昇した。2004(平16)年には東大29名となって、瞬間的に御三家と呼ばれた私立武蔵高(26名)を抜き、開校以来の記録になった。

 この小竹向原駅は、古くは丸の内線の起点として計画された駅で、旧校舎時代から西門が設けられていたが、1983(昭58)年の開業後も、徒歩で20分ほどかかるため、西武池袋線の乗り入れまでは学校案内などでも、最寄り駅という記載はされていなかった。しかし2007(平成19)年頃より、駅と学校間の自転車通学を許可するというユニークな対応が始められ、現在に至っている。

 

《エピソード》
1、明治期の城北尋常中(現、戸山高等学校)に一時、東條英機元首相が在学した。

2、旧城北高等補習学校の認可申請は、1935(昭10)年4月15日付けであるが、2年後に建てられた市川学園も、同日が創立記念日である。

3、明治の城北中のライバル校だった開成中は、「質実剛健」を校訓としたが、4中時代の深井校長は「質実厳正」を多用した。

4、1948(昭23)年に、現在地に移転した戸山高で全焼火災が起こったことから、戸山では1961(昭36)年まで、城北では1982(昭57)年まで、市川では2002(平14)年まで、教室に暖房が設置されなかった。

5、近藤薫明元校長は4中教諭時代に、牛込高等女学校(豊島岡女子高の前身)校長就任を打診された事がある(35年史)。後にこの学校の校長を引き受けた二木謙三氏の「静座法」(複式呼吸の本)を、旧制中学3年の近藤氏が愛読し、授業前の「静座」が誕生した。

6、開校初期には、ときわ台駅からのアクセス(徒歩10分)に旧東門が設けられていたが、道がカーブで視界が悪いことなどから早い時期に廃止され、1982年(昭57)まで近藤校長邸が建っていた。

7、現在、旧西門(現グランド門)脇に残っているイチョウの大木は、1期生が植えたものである。

 

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