城北学園の開校記念日は?

 城北高校の前身で市谷左内町にあった城北高等補習学校(戦後は予備校・昭和10〜62年)は、東京府立4中(都立戸山高校)補習科に入れなくなった全国の旧制高校の浪人生を受け入れる為に作られた学校です。

 設立認可申請が昭和10年4月15日で認可は7月22日、定員400人に対して、1300人余りの応募があったそうです。同年3月15日付で校地建物(360坪)を所有する深井鑑一郎・4中校長と、補習学校の設立者・田中善次郎氏との間で借用契約が結ばれていますが、まずは私塾として開校してから認可申請となった様です。

 現在の城北高校は、深井鑑一郎氏が4中を退職して城北高等補習学校の校長となってから、昭和15年11月1日に4中の近藤薫明教諭(1人)を呼んで、旧制中学開校の意志を告げた日を開校記念日としています。翌昭和16年1月30日に設立認可を申請し、3月7日に認可、補習学校を仮校舎として、わずか5か月で旧制城北中学校が開校しました。その開校後、ほどなくして城北高等補習学校は戦時下で廃校接収となり、25年頃に返還されてからは、城北学園が昭和62年まで城北予備校として経営しました。

 城北高等補習学校開校の2年後、4中元教員の古賀米吉氏により開校した市川学園は、4月15日を創立記念日としています。当時この校地周辺は糞尿を山とする土地柄で、それを運ぶ小舟が目の前の川を往来し、古賀先生自身「最も悲惨なる開校」と語り、来校した深井校長も「いかがなされるおつもりか」と心配して、古賀先生に城北補習学校の講師の仕事を紹介したと、何かの本で読んだ覚えがあります。

 また昨年まで城北学園グリークラブ(旧合唱部)は、城北補習学校が認可された7月20日頃に、毎年定期演奏会を行っていました。しかし2000年頃に開設された城北学園のHPでは、何故かこの演奏会の事前の告知を行う事がありませんでした。


 城北高等補習学校について

 東京の公立で学校補習科を創始されたのも(深井)先生を嚆矢とする。4中補習科と言ったが実は校友会の建設という名義であった。大正12年か3年の頃であったと思う(この以前にも補習科のあったこともあるようだが、それとは別である)。当時の4中生は早きは4年修了、遅くも翌年卒業で上級学校へ進学した。でも若干・・2、30名・・が残る。これが神田辺の補習校に通うらしかったが、どうも芳しくない。これを救いたいというので創始されたのが、4中補習科であった。24、5人の希望者があった。これでは経営が出来ぬので他から若干を入れて46人であったと思う。これも比田氏が主任になった。成績が挙って、翌年にはその45人が進学し、1人が残った。これにはずみがついたか、外部からの希望が続々で、小百名になり、午前・午後と2クラスになる。この時は入学試験科目は英・漢・数の3科目で、理科はなかった。比田氏は化学の先生であったので、辞任されて私が引きうけ、新たに下瀬君というのが加わって、2人が主になってやった。この年も90幾%が進学した。出願者はますます多くなる。夜間でいま1組作って3クラスとなった。このあとで名古屋中学校の教頭であった田中饒氏が辞任して、4中に帰られた。(氏はもと4中におられた人、また4中の卒業生であった)

 田中氏を迎えてから、補習科はますます発展してきた。で市内の同業の補習学校から悪まれ、ついには府から、さしとめ的な内示が(深井)校長にあった。校長は怒られた。早速やめると言われる。しかしこの時、4中補習科は全国的な存在となっており、午前・午後で小千人に及んでいる生徒の90幾%が、立派な上級学校に進学する。それをやめるわけにはゆかない。田中君と私とが反対する。先生も不機嫌で、私に向かって、「あなたは4中をやめて1人でやるか」とまで言われた。「致します」と答えた。実は先生もやめたくなかった。でこれを独立して他に移す考えになられ、先生の親戚筋とかいう田中という人から5万円とかを借用して、佐竹三吾氏(4中卒業生)所有地を買収して新築してくださった。この校舎が、今の牛込左内坂上城北予備校の校舎である。ここへ4中補習科の大半を移し田中君が主事で経営する。あとに4クラスを残して、私が4中で主任として世話をしながら、なおあと1か月間私は田中君の城北へ通って手伝った。新しい学校を城北高等補習学校といった。

 4中の補習科も、その後段々と大きくなりもとのようになってしまったが、城北は大変な発展で、ともに依然として入学率もよい。深井先生ご勇退ののちは、先生をこの補習学校長として迎えたが、実は私と田中君とは、学校創立当時からこの計画で建てたものだった。私が4中をやめてからは、私も先生に引っぱられていって、3人が、また一緒になった。田中君の城北補習学校における功績は大きい。これが全国の学生に及ぼした影響も、また絶大なものだったと思う。

   府立4中・大輝秀穂教諭 「府立4中・都立戸山高百年史(P.516)」より

※1921(大正10)年に旧制高校の入学時期が4月になるまでは、7月に入試が行われた為、それ以前の補習科というのは、主に中学校卒業から高校入試までの3か月間ほどのもので、明治30年代から存在していた様です。